太平洋戦争末期の19453月、アメリカ軍のB29爆撃機による空襲は軍需工場などを狙った爆撃から焼夷弾を次々に投下して一般の民家を焼き尽くす無差別爆撃に変更された。

310日に東京、12日に名古屋、13日に大阪、17日には神戸と、横浜を加えた当時の5大都市は度重なる空襲によって焼け野原となり、アメリカ軍が次の標的にしたのが全国の中小都市だった。アメリカ軍は人口の多い順に、1位の東京から180位の熱海まで番号をつけ、次々と焼き払う計画だった。6月以降、100機を超えるB291日に4つの都市を襲い、犠牲者は50万人とも、70万人とも言われている。

 

生命は助かっても、ケガをして障害を負った人も少なくなく、戦後74年経った今も苦しんでいる人がいる。新聞うずみ火の読者で大阪市に住む藤原まり子さん(74)もその一人。

藤原さんは1945313日深夜の第1次大阪大空襲の2時間前に生まれた。家族の喜びも束の間、空襲警報が鳴り響く中、生まれたばかりの藤原さんは母と2人、自宅に作った頑丈な防空壕に布団ごと運び込まれた。

そこへ焼夷弾が直撃。防空壕の中は火の海となり、藤原まり子さんをくるんでいた産着にも火が付き、左足に大やけどを負った。

母親は娘を産んだばかりで身動きが取れない。懸命に声を上げた。「助けて、中に赤ちゃんがいるの」

家族は隣近所へ消火活動に出ていて留守。たまたま、家の前を通りかかった青年がその声を聞き、防空壕の中に入って2人を助け出してくれた。

空襲警報がおさまり、家に帰ってきた父親が藤原さんを抱いて病院へ駆け込んだ。薬と言っても赤チンがあるだけ。医師がやけどを負った左足に赤チンをつけると、足の指がポロポロと落ちたという。

年齢を重ねても左足は膝から下がぐにゃっと曲がったまま。左右の足の長さをそろえるため、左足に補装具をつけなければならず、それを隠すために太いズボンをいつも履いていた。

藤原さんが自分の足が他の子と違うと感じたのは5歳の時。当時は家にお風呂もなく、銭湯に通っていたが、ある日、同じ年頃の男の子がいて、藤原まり子さんの足を指さして「変な足」と言って笑った。隣に男の子の母親がいたが叱るでもなく、こう言ったという。「あんたもな、悪いことしたらこんな足になるんやで」

小学校に入っても体育の時間は見学、運動会も見学。「あのまま死んでしまった方がよかったのに」と思うようになったという。

藤原さんはスカートをはいてみたいと思うようになり、中学2年生のときに膝から上10㌢のところで切断し、義足をはいて生活している。

 

藤原さんのように空襲で大けがをして手足を失った人、焼夷弾で全身大やけどを負った人、かけがえのない肉親を奪われて孤児になった人などは少なくない。

ご存知でしたか、こうした民間の空襲被災者に国から1円の補償もないことを。

戦前・戦中には、民間人が空襲などでけがをしたり、家族が亡くなったりした場合、救済する法律があり、補償金を受けていた。ところが、敗戦後の1946年に、軍人恩給などとともに廃止された。

1952年にサンフランシスコ講和条約が発効され、日本が独立すると、旧軍人・軍属、その遺族を救済する法律ができ、翌年には軍人恩給も復活した。これまでに支給された総額は60兆円。その一方で、民間の空襲被災者は同じようなケガをしても補償金はゼロ。

その後も広島・長崎の被爆者、シベリア抑留者、中国残留孤児にも救済する法律ができ、ささやかとはいえ、補償金も出ている。にもかかわらず、戦後74年、民間の空襲被災者だけが取り残されている。

 

空襲被災者たちは何も手をこまねいていたわけではない。

救済する法案を作ってほしいと街頭に立って署名を集め、それを持って国会議員に陳情を繰り返した。1973年から89年まで、救済を求める法案が国会に提出されたが、ことごとく廃案に追い込まれた。

政府が補償を拒む2つの壁がある。

一つは「国と雇用関係がなかった」こと。

だが、国が戦争を始めなければ一般市民が被害に遭うことはなかった。ましてや、軍人でもない一般市民は、危険に身を投じる対価としての給与を受け取っていない。受けなくてもよいはずの被害をうけたのだから、真っ先に国家補償が支払われるべきだ。

二つ目は「戦争損害受忍論」の押しつけ。戦争という非常事態では、国民は等しく損害を受け入れなければならないという考え方だ。だが、一方で旧軍人・軍属には年間1兆円の補償が支払われている。憲法14条では法の下の平等をうたっているではないか。

 

街頭で署名活動をしても国会議員に陳情しても、自分たちの声は届かない。もう裁判しかないと、東京に続いて大阪でも空襲被災者が立ち上がって損害賠償を求めて提訴した。

裁判にはお金もかかるし、時間もかかる。それでも立ち上がったのは「このままでは死ねない」という思いから。

残念ながら、東京、大阪とも裁判では原告敗訴となったが、二つの前進があった。

一つは、当時の国の政策によって空襲被害を大きくしたことを認めたこと。具体的に言うと、当時は「防空法」という法律があり、空襲の最中であっても、避難することを禁じられていたことで犠牲者が増えたと認定したのだ。

二つ目は、司法ではなく、立法の場で救済を求めるように言われたこと。

判決を受け、自民党から共産党まで超党派の国会議員連盟が発足。民間の空襲被災者を救済するための法案の背率を目指している。

ただ、その法案の中身が問題だ。補償金はけがして障害を負った人だけ、しかも一時金として50万円だけ。孤児になった人にはこれまで通り、全く補償なし。しかも、藤原さんらが求めた、政府からの謝罪もなし。

それでは、「また繰り返されるのではないか」と不安は尽きない。(矢野宏)