6月23日は沖縄慰霊の日。74年前のこの日、太平洋戦争末期の沖縄戦で組織的な戦闘が終わった日といわれている。最後の激戦地と言われている沖縄本島の南端、糸満市摩文仁にある平和祈念公園では毎年、「沖縄全戦没者追悼式」が行われている。だが、沖縄の北部ではその後も戦争が続いていたのをご存知だろうか。
沖縄戦に動員されたアメリカ兵は54万人、日本軍は11万人。
1945年4月1日、沖縄本島に上陸したアメリカ軍は沖縄を南と北に分断するため、主力部隊を沖縄守備隊・第32軍司令部のある首里方面へ、もう一つの兵力を沖縄北部=やんばる(山原)を占領するため、北へ向かわせた。
沖縄戦と言えば、砲弾が飛び交う中で繰り広げられた南部での戦いが注目され、沖縄北部である「やんばる」で戦闘があったことがほとんど知られていない。だが、南部での戦いが6月23日にひと段落した後、やんばるでは「ゲリラ戦」という形で戦いが続いていた。その一翼を担ったのが少年兵だった。
その前に、なぜ、沖縄が戦場になったのか。当時の日本軍とアメリカ軍の目的は何だったのか、振り返っておこう。
名護市教育委員会の市史編さん係の川満彰さんによると、日本軍は「沖縄戦を最終決戦とは考えていない。あくまでも最終決戦は日本土決戦。沖縄戦はそのための時間稼ぎ。それゆえ『捨て石』にされた。アメリカ軍も最終決戦の場を日本本土とし、本土上陸を想定し、そのための基地を沖縄に作ろうと考えていた。本土決戦のため、日本軍が選んだ時間稼ぎをするための持久戦、それがゲリラ戦だった」という。
ゲリラ戦とは、山の奥深くなどに潜み、敵に正面から攻撃をしかけるのではなく、気づかれずに奇襲攻撃を繰り返す戦法のこと。
当時の日本軍には戦うための武器や弾薬も兵士の数も少なく、圧倒的に不利だった。それでもアメリカ軍にダメージを与えるにはゲリラ戦しかなかった。
そのために結成されたのが「護郷隊」と呼ばれる少年兵の部隊だった。護郷隊とは、兵士にされた少年たちの戦意高揚をはかるため、「自分の郷土は自分たちで護れ」ということでそう呼ばれた。
少年たちを兵士にするための訓練を行ったのが、陸軍中野学校を卒業したメンバーたちだった。中野学校とは、陸軍の参謀本部直轄で、特殊任務を実践するための専門要員を養成する機関。
集められた少年兵たちは1000人。15歳から18歳。徴兵検査を受けるのは20歳からだったが、戦局の悪化で引き下げられ、44年から17歳でも召集されるようになった。突然、学校へ呼ばれ、志願という形をとらされた。なかには、軍刀を抜き、「志願するのが嫌な奴は前へ出てこい」。出ることなんてできない。しかも、当時は軍国主義教育を受け、「お国のために命を捨てること」が男児の生き方と教えられていたのだから。川満さんは「少年兵の多くが強制された志願だった」と語る。
少年を兵士にするためにどうしたのか。川満さんは3つ提示した。
- 自分が死ぬことを恐れないこと
- 敵の兵隊を殺すことを恐れないこと
③友だちが死んでも恐れないこと
「お国のために死ねるか」を強制され、友達を思いやる優しさを奪われていった。つまり、人間を作り変えなければ、戦争にはならないという。
入隊直後から、「行軍」といって、重い荷物を背負って何キロも歩かされたり、銃の撃ち方、銃剣術、ダイナマイトを四角い箱に詰めたり、爆弾の使い方、陣地壕をつくったり、訓練は厳しく、辛い体験だったという。
川満さんが元少年兵から集めた証言がある。
「自分と5㍍くらい離れていたところに構えていた兵隊の前に突然迫撃砲が落ちてきて吹っ飛ばされた。頭が亡くなって顎の下だけが残って即死」
「山奥には避難民などが大勢集まってごった返していた。山道には体力のない人、老人などが精も根も尽き果てて飢え死にし、また死の寸前で息も絶え絶えに、食べ物や水を恵んでくれるよう嘆願している姿もいっぱい見受けた」
実は、護郷隊はアメリカ軍の北部侵攻を食い止める目的で、町や村の端をことごとく破壊した。しかし、アメリカ軍は難なくブルドーザーで破壊された橋の両側を埋めてすぐに車を通した。一方で、北部へ避難する住民は、橋がないため馬車を通すことができず、途中で荷物を捨てて行く住民も少なくなかった。
戦況が悪くなり、護郷隊が山から撤退することになったとき、ケガを負い歩けなくなった少年兵は足手まといになるため、軍医によって銃殺されたという。
「兄は護郷隊でケガがもとで亡くなった」とだけ聞かされていました。兄の最後を知る元少年兵が語ってくれた。
「遺骨収集によって兄の遺骨が戻ってきたとき、その頭蓋骨を抱いて母が号泣していたのを覚えています。70年以上たって兄がどんな無念の思いで死んだかを考えると真実を知ることができて良かった」
沖縄戦が終わったのは1945年9月7日。玉音放送が流れた3週間後のことだった。
※写真は第一護郷隊の慰霊碑