8月に入り、岐阜県大垣市と広島県福山市を相次いで訪ねた。74年前の夏、いずれも米軍による大空襲に見舞われ、市街地の8割以上が焼失している。大垣空襲は1945年7月29日、福山空襲は広島への原爆投下2日後の8月8日、終戦の1週間前のことだった。
二つの都市には、他にもいくつかの共通点があった。
太平洋戦争末期の人口が6万人弱。来襲したB29爆撃機の数も90機ほどで、夜間の無差別爆撃だった。
江戸時代に遡れば、大垣藩と福山藩とも10万石の城下町で、空襲によって当時国宝だった天守閣をともに焼失している。
だが、決定的に違う点が一つあった。
それは空襲による犠牲者の数。福山空襲による死者が355人だったのに対し、大垣空襲では50人。福山市が多かったわけではない。7月9日の和歌山空襲は1200人、翌10日の堺空襲では1860人が命を落としている。
空襲があれば避難するというのは、今から見れば当然の判断だが、当時は「防空法」という法律があり、都市部の市民は逃げることが許されなかった。逃げれば、1年以下の懲役、または罰金500円が課せられた。当時の小学校教員の初任給が55円だった時代に、である。
しかも、国民統制のために作られた「隣組制度」があり、逃げたことがわかれば警察に通報され、配給が止められることもあったという。
では、逃げることを禁じられて何をやらされたのか。消火活動である。どんなに激しい空襲の最中でも火を消せと命じられていたのだ。まさに、逃げてもその場に踏みとどまっても死活問題だったのだ。
なぜ、大垣空襲では犠牲者が少なかったのか。
「空襲体験を語り継ぐ大垣の会」の高木正一さんによると、大垣空襲の20日前の岐阜空襲の影響があったという。900人の犠牲者を出した惨状を知った大垣市当局がその日に出した通知が今も残っている。
<今回の焼夷弾は、その発火と火の回りの早きこと、従来のそれとは大いに異なり、到底初期防火など思いもよらざるを教えられたり。その結果、避難を主とすることに当局の方針を変える>
この方針は1週間後に撤回されるが、高木さんは「一時的とはいえ、市民の命を守るための指示を出したこと、そういう考えを当局が持ったことが重要だ」という。
さらに、岐阜空襲を目の当たりにしてバケツリレーなどの消火活動で焼夷弾の火が消せるわけがないと考えていた元少年兵が軍の規律に反し、率先して市民を避難させたことも明らかになっている。
大垣空襲で亡くなった人が少なかったのは様々な条件もあるだろうが、当局からの指示が反映していたのかもしれない。(矢野宏)
※空襲で石垣も赤く焼けた福山城