太平洋戦争末期、米軍が原子爆弾投下の訓練として大阪市東住吉区田辺に「模擬原爆」を落としてから7月26日で75年を迎えた。爆心地に近い恩楽寺で追悼式が営まれ、新型コロナウイルス感染防止のためオンラインで参加した児童・生徒を含め、約80人が犠牲者の冥福を祈った。 

模擬原爆は、長崎で使用されたプルトニウム型原爆「ファットマン」と同じ形・重さで、カボチャのような形状から「パンプキン爆弾」と呼ばれた。

29爆撃機から原爆を投下したあとに巨大な衝撃波が発生する。それに巻き込まれないようにするためには重い機体を急旋回しなければならず、想定通りに実戦投下するためには訓練が必要だったのだ。

模擬原爆の存在が明るみになったのは1991年、愛知県の「春日井の戦争を記録する会」が国会図書館にあった米軍資料から投下場所の一覧表や地図を見つけたのが発端だった。45年7月20日から8月14日にかけて、本土空襲に紛れて大阪をはじめ東京、神戸、大津など日本各地に49発が投下されていた。原爆投下の練習台だったのだ。

田辺に模擬爆弾が投下されたのは45年7月26日午前9時26分。爆心地は、現在の田辺小学校の北側だった。大阪市が作った「昭和20年大阪市戦災概観」には、死者7人、重軽傷者73人、焼失倒壊戸数485戸、罹災者1645人と記録されている。

黙とうの後、当時、国民学校の教師だった龍野繁子さん(95)は、あの日を振り返った。

学徒動員の生徒20人を引率して海軍士官のボタンを作る工場にいた。爆心地から150㍍ほど。作業を行おうにも原材料の金属もない。工場長から「勉強でもしてていい」と言われ、作業部屋の隣の部屋で勉強を始めようとしたときだった。ズドンという大きな爆音ととともに、バリバリと強い衝撃を受けたという。

「大きな石が作業部屋の屋根を突き破り、床下まで貫いていました。いつものように作業していたら、生徒たちは無事では済まなかったと思います」

爆心地の近くは惨状を極めていた。

「電線に人の内臓がぶら下がっていたのを見ました。爆死した人の遺体を見て足がすくだのを今も覚えています」

 

※写真は、記者からの質問に答える龍野さん